大阪だけでやってくれ

こんな記事があった。

 大阪市橋下徹市長は1日の市議会代表質問で、市立小中学校での国学力テストの学校別結果を2014年度をめどに公表する方針を明らかにした。
 (略)
 市教委は同年度に小中学校の校区を越えて学校を選べる学校選択制の導入を目指しており、橋下市長は「保護者に(学校を選ぶために)学校ごとの必要な情報を提供するのは当然」と答弁。

【2012年3月1日 読売新聞】

困った人だな。大阪でちまちまやってる限りにおいてはまあ、どうぞご勝手にという感じだけど、この人国政への野心マンマンだからなぁ。

これ逆なんだよね。学区制の厳格な適用が前提としての成績開示ならともかく、越境制度の導入とセットだというから、目指しているものが全く受け入れ難い。

私学はともかく、公教育の役割は何だ、と考えたら、出身門地や親の職業、家庭の経済状況等にかかわりなく、ひとしく教育の機会を提供し、これからの社会生活に必要な学力知識技能経験や道徳、社会性を学ぶことにあると思う。

学校ごとの成績を公開し、ランキング化を推奨した上で、越境入学を拡大すれば、遠隔地に子供を通わせる余裕のある家庭は当然、高ランクの学校を選ぶことになる。
その余裕のない家庭の子供は、ただでさえ塾だのなんだので裕福な家庭の子との学力差がつきやすい上に、地域によっては低ランクと言われる学校に入らざるを得なくなる。
高ランクの学校には経済的に余裕があり、優秀な子供が集められてさぞかしハイレベルな教育を受けられることだろう。

学校がランク付けされることにより、低ランクの学校が成績向上のために努力するか?といえば、俺はそうはならないんじゃないかと思う。

学力の面だけでいえば、子供毎に達成度の差がついてしまうのはいたしかたないことである。学校がランクわけされたら、あまり成績の芳しくない子供は低ランクの学校が受け皿となる。ダメ学校とわかっていても、ニーズがあるからむやみにランクアップを目指すわけにはいかなくなるだろう。日比谷高校が中野工業と都立トップを争っているなんて聞いたことがない。基本的に学校ごとのランキングは固定化する。

少なくとも義務教育のレベルで学校ごとに過度に教育内容に差があるようなことをしてはいけないのだ。たとえタテマエだとしても、公立学校はどこに入っても同じレベルの教育を安心して受けられる、という制度を整えるのが行政の役目だと思うな。

ランキングそのものは悪いものではないが、誰もが自由に選択できる条件を備えているわけではない以上、それは家庭が学校を選択する指標として開示するのではなく、教育者や行政が学校間の格差をなくすための指標として、内々に扱うべきものだ。

どうも新自由主義者というのは公的部門と民間部門のありかた、役割の違いをごっちゃにしているようだ。選択と集中、無駄の削減と効率化なんてのは企業の戦略としては有効かもしれないが(俺はそれにも疑問はあるが)、そんな市場の原理を公的部門に無闇に持ち込むのは考えものだ。

俺の小中学校時代は、いろんな奴がいたものだ。勉強は全然ダメだが、体育になると途端に大活躍し据え置きのチームリーダーになっちゃう奴、算数といえば○○君だな、なんて言われ得意分野では誰にも負けない奴、普段は地味でなんの取り柄もないなと思ってた奴が突然作文の賞をとったりする。公立ながら場所柄がいいせいか、場違いなほど金持ちもいたりした。そいつの家に遊びに行った時は、あまりの生活レベルの違いに驚いたもんだ。

デキる奴とそうでない奴を一緒に学ばせるのは、確かに効率的ではない。できる方は進みの遅さを我慢しなきゃいけないし、ダメな方はついて行くのが大変かもしれない。そのコストが無駄であることは間違いない。それぞれのレベルごとに合った教育をした方が効率的だ。

でもそれではレベルごとの差が縮まるどころか、さらに開いて行くことになるだろう。ハイレベルの子供はエリートの道を、低レベルに振り分けられた子供は、そのまま社会の底辺で生きて行く術を学んでいくことになる。

公立の場合はその選別が高校ではじめてはっきりされるわけだが、橋本氏の考えではこれが中学校、小学校から始まることになる。子供の頃から底辺校に行かされた人が、社会に出てエリート教育を受けた者たちと対等に生活して行くことができるのか、というと甚だ疑問である。

橋下氏の経歴を見てみると、彼の幼少期も決して恵まれたものでなく、高校まで公立校に通っていたそうである。どんな学校だったのか実態はしらないが、選択と集中の効率重視教育の中では、彼も這い上がるチャンスもなく社会の底辺にうもれてしまったかもしれない。
彼がいまの華やかな地位を築いているのは、自分だけの努力によるものだと思ってはいはしまいか。
そんな恵まれない彼でも、差別されることなく一定レベルの教育を受けられる公教育のシステムがあったからこそではないだろうか。

多少のタテマエは入るが、公教育の役割はエリートを養成して落ちこぼれを排除することではなく、ある程度の非効率は覚悟のうえで、落ちこぼれを作らないことにあると思う。落ちこぼれの受け皿を作ることを前提にしてはいけないのだ。

公共部門に市場の原理を持ち込むことが全てダメとは言わないが、ほどほどにして欲しいものである。
でも、そういうことをやりたい人がいわゆる市場原理主義新自由主義者と言われる人たちだからなあ。

大阪の人達には気の毒だが、大阪だけでやって下さい、お願いします。